昭和42年06月24日 朝の御理解
ピチピチしたおかげ生き生きとした、おかげを頂きたいと願うならば、私共の信心もいわゆる心も、生き生きとしておらなければならない。例えば教会そのものに、生き生きとしたヒレイがない。生き生きとした勢いがない教会そのものに生き生きとした御ヒレイがない。そこへ如何に私共、言わば信奉者信者一同が、生き生きとした信心をした所で、生き生きとしたおかげが受けられない、と言う事もいえる訳ですね。
それはもう古い教会当たりになりますと、本当に生き生きとした信心をなさっておられる方がありますよ。修行精神の強い常にその生き生きとした信心を、しておられるんだけれども、もうその教会そのものに、生き生きとしたヒレイがない。ですからですね生き生きとしたものに、生き生きとして触れる事が出来ない。神様は何時も生きて御座る。天地は何時も生きて御座るのだから、よかりそうなものだけれども、取次の中にある所の会堂教会、教会長お取次をする人がです。
生き生きとしたものがないから、その信者が如何に生き生きとした信心をさして頂いても、是を遮断する様な形になる訳なんです。と言う事も云えるんですね。天地は生き通しに生きてござる。その天地の生き生きとした、生き通しの天地のお働きを、生神金光大神のお取次によって、いわゆる生き生きとしたお取次によって、私共が生き生きとした心を、もって願わして貰う所に生き生きとした、ヒレイがそこに立つのである。生き生きとしたおかげがいうなら、ビチビチとしたおかげが頂かれるのである。
私昨夜大祓式の事に付いての打ち合わせが、昨日あっておりまして、もう十二時過ぎましたでしょう。皆さんを帰って皆さん送り出してから、また御祈念をさして頂いておった。と自分の心の中にある人の事が心に非常にきつく、強くこう残っとりましたからその人の事を願わしてもらった。願っておった。そしたらですねなんでしょう平目という魚がありますね。平目みたいな魚なんですよ。そのそれが干物なんです乾物ですよ。いうなら乾物屋さんに売っている魚なんですよ。干物の様な魚を頂くんです。
そして私がその人の事を一生懸命、いうならば心に掛っておった事を願わして頂いておったらですね、こういう干物にですよ、それがビチビチ泳ぐ様なおかげを頂かして下さいと、云うて願うてもダメじゃと神様が仰る。氏子の心の中に生き生きとした、心の出来る事を願えと神様が仰る。それはそうですよね、いわゆるからからに乾いておるもの、いわばミイラの様になっておるものを生かしてくれというのと同じ事だと。氏子の心の中に生きた物がない。枯れ果てておる干し物なんだ。
是にどうぞ生き生きとした例えばなら、合楽なら合楽のお広前に生き生きとした、例えばですよ御ヒレイがありましてもです、氏子の心の中に干物の様な物が心が枯れておったんでは、如何に願っても是はダメだと。生き生きとしてからそれこそ魚が水を得た様にとこう申します。生きた魚が持って来る。さぁ早うたらいに水を入れてというてその水の中に入れまして、それこそ魚が水を得た様にという。本当にその通りにビチビチと泳ぎ出すでしょう。どんなに御ヒレイがあるというてもです。
願う氏子の心の中に生き生きとしたものがなかったら、生き生きとしたおかげになってこないです。それと反対の事もその事から考えられますたいね。今私が申しました様に。如何にビチビチとした信心をしておっても、こちらに水がなかったらピチピチとして泳げませんものね。今日はそこん所をです私共がおかげを頂きたいと願う。お取次を頂くその頂いておるその心の中に、果たして生き生きとした心があるかないかと言う事。昨日の朝の御理解をいっぺん思い出されるといいですね。
木の根をはったと。大地に根を下ろして生き生きとしてこの芽が出たり、葉がしこったりして行きよる。形は同じであってももう枯れ上がって行きよる木、もう枯れつつあるものになら大地にどの様な良い、それを生かさなければおかんという働きがあってもです。枯れた木にはもう仕方がないのですよ。例えていうなら八波の御紋章の旗がです、風を入れて初めてハタハタとした、そのひらめきと申しますかね、旗が勇ましく元気にみえるんだと。難儀な事があってもそれをじっと自分の心の中にです。
いやむしろその難儀を感じれば感ずる程、神様へ向かう心が強うなると言った様な心なんです。生き生きした心そこで私はその事を頂いたからですね。神様それでもどうでもおかげを頂きたい、又おかげをお取次さして頂きたい。勿論それを私が代わって修行も致しましょうけれども、本人が本当におかげを頂きます、おかげを頂き通しますおかげを頂く為には、どの様な信心を教導し又お取次をさして頂いたらよろしゅう御座いましょうかと言う事をお伺いさして頂きましたらね、漢字で仙人の仙云う字を頂いた。
仙人人偏に山という字が書いてある。人間が願い出る氏子修行精神を作ってやれと言う事なんです。山というのは修行と言う事、お道の信心さして頂く者はですね、この修行精神というのを、何時も持っとらにゃいかんです。はぁ修行不足だから、神様修行を求め給うなと言う様な事を分からん。例えていうなら昨日なんかもう十二時に久富先生がここを代わろうと、昨日はなんか白んけど途中でこう眠たかった。
いうなら早く代わって欲しいというもう十一時頃になったら、今度はお参りがずっと続いておった。しかももう手が放せん様なお取次であった。私でなからにゃ出来ない様な事であった。例えば昨日のあの、深町良三さんの所の子供の初参りであるとか、初めて久留米の佐田さんのお父さんがお参りをしてみえるとか、私がここに座っとらなければ、出来ないという。私がここで生き生きしとかにゃ出来ない様な、人達が次々とお参りをして来る。久富先生は代わろうとしておられるけれども代わられない。
そういう時に私の心の中にね、ははぁ途中で眠かってから修行不足になっとったから、神様が修行を求め給うなぁと私は思う。私共の心の中にやっぱ人間ですから、眠い時もありますよ。なごなる事もありますよ。けどもすぐその後には、それをこう補って下さる様にです。神様が必ず修行を求め給うのです。その時に早うこっちが立とうと思っとる時に、代わろうと思いよる時に、何時まででんお取次を頂いてたりなんてん、こちらが思うたらもう詰らんですよね。
ははぁ神様がもう私が修行精神が欠けておるから、もう神様が修行を求め給うんだなぁという風に感じさせて貰うたら、その十分二十分とその時間がたって行く事。もう十二時を過ぎて行く事がです有り難いです。そしてこのまま続くならもう良か、何時まっでん座っとこうと言う様な元気がでて来るです。そういう心の上にです、そういう生き生きとした心の上に、神様の生き生きした働きがです。
金光大神の生き生きした、お取次によって生き生きとして、ビチビチとした魚が水を得た様な勢いのおかげになって来るのですよ。昨日も私夕方ちょっと表に出らして頂いた。昨日は熊本の大田先生達が夫婦で月次祭参拝があっとった。したら奥さんか一生懸命表のあの参道の所の草取りをしておられる。裸足になって丁度熊本から長い時間掛ってからですよ。昨日は汽車でみえとられますもう疲れてもおられる。
まあ一服りして下さい、まぁだお祭りまでには時間がありますから、ゆっくりして下さいと言う所なんだけれども、本人が一生懸命先生にいやぁ、ああた奥さんな一生懸命草取りしござると言うたら、それがもう草取りする事がもう嬉しゅうて、有り難うして応えんち云うてから、家内が草取りよりますとこう云われる。さぁそういう生き生きとした心で御用頂いておられるのに、止て下さいと言う事はいえんじゃないですか。私はもう生き生きとした心と云うのは、そういう心だと思うんです。
勿論今日はさして暑くもなかったけれどもです、さぁ熊本から遠い所から態々お参りをして来ておる人がです。さぁお祭りまで時間があるけん一時なごなろかと、なごなっとこと言う様な考え方とです滅多にお参りできんのだから、せめて境内の草でも取らして頂こうと云う様な心なんだ。それが人偏に山仙と言う字なんだ、修行の心なんだ。お道の信心だから修行精神が欠けたらおかげはもう受けられないと、言う事と言えますですね。所謂ピチピチしたおかげはですよ。
生き生きとしたおかげは、頂けないと言う事になります。修行少ないと言う様な心では、それでも迂闊にしておりますとです、昨日の私の様な事です。もう交代の時間に次々とお参りをして来る。もうこっちは立とうと思いよるとに、もう眠うして応えんのにと、言う様な心ではなくてです、はぁ神様が修行を求め給うなと思う時に、心の何かしらんけれども、いわゆる眠いなんかという事は一遍に覚めてしまう。そして神様が求め給う、修行ならばひとつ本気で座らしても頂くぞ。
修行もさして頂くぞと言う様な心が生まれて来る。そういう心の上にです、生き生きとしたおかげが頂かれるんだと言う事です。お互いの心が丁度干物の魚の様な、もう枯れ果てた様な喜もなからなければ、元気もない、本気で修行さして頂こうと言う様な心もなくてです、おかげだけ生き生きとした、おかげを頂こうと思うたって無理です。所がお互いそういう心があります。心のそういう時があります時には、自分で自分の心を叩いてもです、私は修行さして貰わなにゃいけないと思う。
そして御用頂いておると言う事が、修行さして頂いておると言う事が、有り難いと言う様な心の状態でお取次を願う。生き生きとした神様の御ヒレイに浴する事が出来る。生き生きとした頂きたい生き生きとしておかげを、おかげを受けると言う事は、生き生きとした天地の神様の働きをです、私共が表し申し上げると言う事になるのです。神様の働きを表す事になる。
私共が生き生きとした、おかげを受けると言う事は、いわゆる神様も喜んで下さり、私共も喜べると言うおかげになって来るのです。そういうおかげを頂く為にです、どうぞ自分の心の中に何時も、絶えず神様が修行を求めて御座るなと、いや本気でいつも修行さして頂くぞと、言った様な私は心構えが、信心には必要であると言う事ですね。
どうぞ。